執筆者:山田雄介(アジア古着市場アナリスト・貿易コンサルタント)
サワディークラップ!バンコク在住の山田です。
2025年の今、活気にあふれるバンコクの日常を見ていると、かつてこの街が水没し、世界中のサプライチェーンに激震が走ったことが嘘のように感じられます。
しかし、2011年、私はこの地で未曾有の大洪水を経験しました。
当時、商社駐在員として繊維・アパレル部門にいた私は、取引先の工場が浸水し、積み上げたビジネスが濁流に飲み込まれていくのを目の当たりにしました。
あの絶望と混乱は、14年以上経った今でも鮮明に覚えています。
今回は、単なる昔話をするつもりはありません。
あの歴史的な災害の当事者として、そして今もアジアの貿易の最前線に立つコンサルタントとして、あの経験から我々は何を学び、未来の危機にどう備えるべきか。「生きた教訓」をお伝えしたいと思います。
【この記事の結論】タイ大洪水から学ぶ、サプライチェーン寸断に備える「5つの鉄則」
- 拠点の分散化: 生産拠点を一極集中させず、代替生産計画(デュアルソーシング)を準備する。
- サプライチェーンの可視化: 二次、三次サプライヤーまでを把握する「サプライヤーマッピング」でボトルネックを特定する。
- 在庫・物流の複線化: 「戦略的在庫」を確保し、輸送ルートも陸路・海路など複数用意する。
- BCP(事業継続計画)の策定: 緊急時の行動計画を文書化し、定期的な訓練で実効性を高める。
- 現地の人間関係の構築: 平時から取引先と信頼関係を築き、「生の情報」を得られるようにしておく。
目次
2011年タイ大洪水とは何だったのか?
まずは、あの洪水がいかに異常な事態であったか、客観的な事実から振り返ってみましょう。
50年に一度の豪雨と人為的要因
2011年のタイ大洪水は、自然の猛威と人為的な要因が複雑に絡み合って発生しました。
タイ王立灌漑局のデータによれば、5月から10月の雨季に記録した総雨量は例年の143%に達し、「50年に一度」と言われるほどの異常な豪雨でした。
参考: 2011年タイ国チャオプラヤ川大洪水はなぜ起こったか
これに加え、上流にあるプミポンダムなどの貯水量が限界に達していたにもかかわらず、乾季の農業用水確保を優先した結果、大規模な放流のタイミングを逸してしまったことも被害を拡大させたと指摘されています。
タイ中部のチャオプラヤ川流域は、もともと勾配が極めて緩やかで水がはけにくい地形です。
そこに、観測史上最大級の雨量とダムからの大量の水が流れ込み、巨大な「水の塊」となって南下していったのです。
日系企業が集積する工業団地の壊滅的な被害
タイは「アジアのデトロイト」とも呼ばれ、特に自動車や電子部品産業において、日系企業の一大生産拠点となっていました。
しかし、バンコク北部に位置するアユタヤ県やパトゥムターニー県の工業団地群は、この洪水の直撃を受けました。
アユタヤのロジャナ工業団地やハイテク工業団地など、7つの主要な工業団地が次々と冠水。
工場によっては水深が数メートルにも達し、生産設備は完全に水没。
内閣府の報告によれば、被災した日系企業は450社近くにのぼったとされています。
当時、テレビで連日報道された、水に浸かった工場や流される自動車の映像を記憶している方も多いのではないでしょうか。
「見えない繋がり」が引き起こした世界的なサプライチェーン麻痺
この洪水の最も深刻な影響は、サプライチェーンの寸断がタイ国内に留まらなかった点です。
例えば、タイはパソコンなどに不可欠なハードディスクドライブ(HDD)の世界的な生産拠点であり、世界の約4割を生産していました。
主要メーカーの工場が被災したことでHDDの供給が世界的にストップし、PCメーカーは生産調整を余儀なくされました。
自動車産業も同様です。
トヨタ自動車はタイ国内の3工場が無事だったにもかかわらず、部品を供給するサプライヤーが被災したため、10月上旬にはタイ国内工場の稼働停止を余儀なくされました。
その影響は、部品供給網を通じてアジア各国、さらには日本、北米、南アフリカの生産拠点にまで波及し、世界規模での減産につながったのです。
多くの企業は、自社が直接取引する一次サプライヤーは把握していても、その先の二次、三次のサプライヤーまでは把握できていませんでした。
この「見えない繋がり」が、洪水という一つの災害をきっかけに、世界中の生産ラインを麻痺させる未曾有の事態を引き起こしたのです。
私の被災体験:水に沈んだ倉庫と、現地で感じた「人の繋がり」
ここからは、私自身の体験をお話しさせてください。
当時、私は伊藤忠商事のバンコク支店で、繊維・アパレルの調達を担当していました。古着ビジネスもその一つです。
鳴り止まない電話と、日に日に増す水位
10月に入り、アユタヤの工業団地が浸水したというニュースが飛び込んできました。
当初は「まさか自分たちのビジネスにまで影響が…」と、どこか対岸の火事のように感じていたのが正直なところです。
しかし、状況は日を追うごとに悪化。バンコク市内にも浸水の危険が迫り、会社や自宅の前に土嚢が積まれ始めると、いよいよ現実味を帯びてきました。
日本本社や取引先からの電話が鳴り止まなくなりました。
「山田、状況はどうなっている?」「うちの製品は大丈夫か?」
しかし、現地の情報は錯綜し、正確な状況把握は困難を極めました。物流は完全に麻痺し、道路は寸断。確認しようにも、被災地へ近づくことすらできませんでした。
浸水した取引先工場と、水泡に帰した古着の山
決定的な連絡が入ったのは、10月中旬のことでした。
私たちがコンテナ単位で古着を保管・加工してもらっていた、バンコク郊外の取引先工場の社長からでした。
「山田さん、ごめん。もうダメだ。工場が胸の高さまで水に浸かった…」
電話の向こうで聞こえる彼の落胆した声は、今でも耳に残っています。
その倉庫には、日本や欧米から仕入れ、これからパキスタンや他のアジア諸国へ輸出するはずだった、大量の古着が保管されていました。
泥水に浸かってしまった古着は、もはや商品価値がありません。文字通り、すべてが水泡に帰した瞬間でした。
会社としての損失はもちろんですが、何か月もかけて築き上げてきたサプライチェーンが、一瞬にして断ち切られた無力感と絶望感は、言葉にできません。
「マイペンライ」の心と、絶望の中で見た人の温かさ
しかし、絶望的な状況の中で、私を支えてくれたのは現地の人々の繋がりでした。
被災した工場の社長は、自身の工場が大変な状況にもかかわらず、「山田さんの会社は大丈夫か?家族は無事か?」と私を気遣ってくれました。
従業員たちは、自宅が浸水しながらも、ボートで工場まで駆けつけ、復旧作業を手伝おうとしてくれました。
タイには「マイペンライ(大丈夫、気にするな)」という言葉があります。
この言葉には、困難な状況でもくよくよせず、お互いを思いやるタイ人の温かい国民性が表れています。
この未曾有の危機の中で、私はビジネス上の関係を超えた「ナムチャイ(思いやりの心)」に何度も救われました。
この経験は、「ビジネスは結局、人と人との関係で成り立っている」という私の信条を、より強固なものにしてくれました。
大洪水が暴いたサプライチェーンの脆弱性
この洪水は、日本企業が築き上げてきたサプライチェーンの構造的な脆さを、残酷なまでに浮き彫りにしました。
一極集中の危険性:コスト効率化の裏にあったリスク
なぜタイだったのか。
それは、タイが優れたインフラ、豊富な労働力、そして政府の積極的な投資誘致策によって、特定の産業における「最適地」となっていたからです。
多くの企業がコスト効率を追求するあまり、特定の地域や国に生産拠点を集中させていました。
この「一極集中」は、平時においては高い生産効率を誇りますが、災害時にはすべての機能を失うという致命的なリスクを内包していたのです。
サプライヤーの「その先」が見えないブラックボックス問題
前述の通り、多くの企業が二次、三次サプライヤーの情報を把握していませんでした。
「この部品の、さらに中の小さなネジは、誰がどこで作っているのか?」
そこまで把握している企業は、ほとんどなかったでしょう。
サプライチェーンが複雑化・グローバル化する一方で、その全体像を可視化する努力が追いついていなかったのです。結果として、どこがボトルネックになっているのか特定するのに時間がかかり、対応の遅れを招きました。
物流網の寸断:モノが作れても届けられない現実
工場が無事でも、部品が届かなければ生産はできません。
製品が完成しても、道路が寸断されていれば出荷できません。
洪水は、生産拠点だけでなく、それらを繋ぐ道路や港湾といった物流インフラにも甚大な被害をもたらしました。
生産(点)だけでなく、物流(線)を含めたサプライチェーン全体のリスクを考慮する必要性を、私たちは痛感させられたのです。
教訓から学ぶ、未来への備え:強靭なサプライチェーンを構築するために
あの悲劇から10年以上が経過し、多くの企業が教訓を活かして対策を進めています。
これからアジアでビジネスを展開する上で、あるいは既存のビジネスを見直す上で、不可欠となる5つの備えを、私の経験を交えて提案します。
【対策1】拠点の分散化と代替生産計画(デュアルソーシング)
一つのカゴにすべての卵を盛るな、という格言の通りです。
特定の国や地域に生産を集中させるのではなく、複数の拠点に分散させることが基本となります。
例えば、主要な生産拠点をタイに置きつつも、同じ製品をベトナムやインドネシアでも生産できる体制を整えておく(デュアルソーシング)。
もちろんコストはかかりますが、有事の際に事業を完全に停止させてしまうリスクと比較すれば、支払う価値のある「保険」と言えるでしょう。
【対策2】サプライチェーンの可視化(サプライヤーマッピング)
自社のサプライチェーンを、一次取引先だけでなく、二次、三次、あるいは原材料レベルまで遡って地図上に可視化する「サプライヤーマッピング」は非常に重要です。
これにより、どの部品がどの地域に集中しているのか、災害が発生した場合にどこがボトルネックになり得るのかを一目で把握できます。
近年では、これを支援するデジタルツールも登場しています。平時からサプライチェーンの「健康診断」を行っておくことが、迅速な初動対応に繋がります。
【対策3】在庫管理戦略の見直しと物流網の複線化
コスト削減のために在庫を極限まで減らす「ジャストインタイム」方式は、サプライチェーンが寸断されると機能不全に陥ります。
もちろん過剰な在庫は経営を圧迫しますが、重要な部品については、ある程度の「戦略的在庫」を持つことがリスクヘッジになります。
また、輸送ルートも一つに絞るのではなく、陸路がダメなら海路、A港がダメならB港、といったように、複数の代替ルートを平時から確保しておくことが重要です。
【対策4】BCP(事業継続計画)の策定と定期的な訓練
BCP(Business Continuity Plan)とは、災害などの緊急事態が発生した際に、事業への損害を最小限に抑え、中核事業を継続・早期復旧させるための計画です。
「洪水が発生したら、誰が、何を、どのように判断し、行動するのか」
これを具体的に文書化し、全社で共有するだけでなく、定期的にシミュレーション訓練を行うことが不可欠です。
机上の空論で終わらせず、実際に機能する計画にするためには、訓練を通じて課題を洗い出し、継続的に見直していくプロセスが欠かせません。
【対策5】現地の情報収集と人間関係の構築
最後になりますが、私が最も重要だと考えているのが、この点です。
災害時、最も頼りになるのは、政府の公式発表やニュースだけではありません。
現地の取引先や従業員から得られる「生の情報」です。
「あの道の先はもう通れないらしい」「隣の村では水位がここまで来ている」
こうしたリアルタイムの情報が、迅速な意思決定を助けてくれます。
そして、そのような情報を得るためには、日頃から現地の人々と良好な人間関係を築いておくことが不可欠です。
困った時に助け合える信頼関係こそが、どんなマニュアルにも勝る最強のリスク管理だと、私は洪水の中から学びました。
洪水後のタイの変貌と、今なお残る課題
強化されたインフラと企業の防災意識
2011年の大洪水を教訓に、タイ政府と企業は様々な対策を講じてきました。
JICA(国際協力機構)などの支援のもと、チャオプラヤ川流域の洪水対策マスタープランが策定され、放水路の建設や堤防の強化が進められました。
多くの工業団地では、数メートルの高さの防水壁が建設され、排水ポンプの能力も強化されています。
企業側の防災意識も格段に向上し、BCP策定はもはや常識となりつつあります。
気候変動という新たな脅威
一方で、安心はできません。
気候変動の影響により、世界中で異常気象が頻発しています。
「50年に一度」と言われた豪雨が、いつ「10年に一度」になるか分かりません。
2025年現在も、タイ南部では季節外れの豪雨による洪水被害が報告されるなど、水害のリスクは常に存在します。
過去の対策に安住するのではなく、常に最新の気象情報を注視し、備えをアップデートし続ける姿勢が求められています。
まとめ:ビジネスは「人と人との関係」から
2011年のタイ大洪水は、多くのものを奪い去りましたが、同時に、私たちに重要な教訓を残してくれました。
それは、グローバルに広がるサプライチェーンの脆さと、それを乗り越えるための備えの重要性です。
拠点を分散し、供給網を可視化し、計画を立てる。
これらの論理的な備えはもちろん不可欠です。
しかし、その土台にあるべきなのは、現地の人々との信頼関係です。
危機に瀕した時、最後に頼りになるのは人と人との繋がりです。
アジアでビジネスを行うということは、その土地の文化や人々を尊重し、共に未来を築いていくことだと私は信じています。
あの濁流の底から這い上がった経験を胸に、これからも日本とアジアを繋ぐ架け橋として、現場の「生きた情報」をお届けしていきたいと思います。
執筆者プロフィール
山田雄介(42歳)
アジア古着市場アナリスト・貿易コンサルタント
タイ・バンコク在住14年目、元伊藤忠商事、パキスタン駐在経験あり
専門分野:タイ・パキスタン・バングラデシュの古着市場
現地ネットワーク:古着卸業者50社以上との取引関係