伊藤忠商事の看板なしで、いかにして現地での信頼を勝ち取ったか(私の実体験)

執筆者:山田雄介(アジア古着市場アナリスト・貿易コンサルタント)


サワディークラップ!タイ・バンコクを拠点に、アジアの古着市場アナリスト兼貿易コンサルタントとして活動している山田雄介です。

2018年、私は人生の大きな決断をしました。8年間お世話になった伊藤忠商事を退職し、フリーランスとして独立の道を選んだのです。14年以上にわたるアジアでの駐在生活で築いた経験と人脈には自信がありましたが、正直に告白すると、私の心の中は大きな不安で満たされていました。

「伊藤忠商事という、あの巨大で、誰からも信頼される“看板”がなくなってしまったら、一体誰が自分を相手にしてくれるのだろうか?」

商談のアポイント、銀行の融資、現地パートナーとの交渉。あらゆるビジネスシーンで、その看板がいかに強力なパスポートであったか、痛いほど理解していました。その魔法の力を失った自分は、まるで裸で戦場に放り出されたような無力感に苛まれました。

しかし、独立の挨拶のために恐る恐る現地パートナーたちを訪ねた私を待っていたのは、予想とは全く違う、温かい言葉の数々でした。

「山田さん、何を心配しているんだ。俺たちが取引していたのは、伊藤忠という会社じゃない。山田雄介という人間だよ」

この言葉は、私のビジネス人生における第二の幕開けを告げるゴングとなりました。この記事では、私が大企業の看板を失った後、いかにして現地での「個人の信頼」を再構築し、むしろ以前よりも強固なパートナーシップを築き上げていったのか、その実体験と、そこから学んだ実践的な原則について、包み隠さずお話ししたいと思います。

「伊藤忠の山田」が享受していた“看板”の力と、その限界

商社マン時代、「伊藤忠の山田です」という自己紹介は、まさに最強の武器でした。特に海外では、その効果は絶大です。初めて訪問する企業でも門前払いされることはまずありません。相手は「あの伊藤忠さんが、わざわざ何の用だろう?」と、丁重に話を聞く姿勢を見せてくれます。これは、先人たちが何十年にもわたって築き上げてきた、会社の信用という巨大な資産のおかげに他なりません。

しかし、商談を重ね、厳しい交渉を経て、最終的に契約書にサインする段になると、その様相は少しずつ変わってきます。特に、私が専門としてきた古着のような、品質や価格が常に変動し、人間的な要素が色濃く絡むビジネスでは、会社の看板だけでは超えられない壁が確かに存在しました。

あるパキスタンの業者との間で、どうしても価格の折り合いがつかないことがありました。何度も交渉を重ねましたが、相手は首を縦に振りません。万策尽きた私は、半ば諦め気分で、ビジネスとは全く関係のない、自分の子供の話や、日本とパキスタンの文化の違いについて語り始めました。すると、それまで険しい表情だった相手の顔が、ふっと和らいだのです。その日の終わり、彼は「山田さんの熱意に免じて、今回は特別だ」と、こちらの条件を受け入れてくれました。

この時、私は気づいたのです。会社の看板は、商談の「テーブル」に着くためのチケットではあるけれど、最終的に相手の心を動かし、困難な合意形成を可能にするのは、担当者個人の熱意や誠実さ、そして人間的な魅力なのだと。本当の信頼は、会社と会社の間ではなく、人と人の間にしか生まれないのだということを、この経験は教えてくれました。

看板を失った日 – 独立の挨拶回りで訪れた「真実の瞬間」

フリーランスになる決意を固めた後、私の前に立ちはだかった最も高いハードルは、長年公私にわたって付き合いのあった現地パートナーたちへの挨拶回りでした。「会社を辞めます」と伝えた瞬間、彼らの表情が曇り、「そうですか、では今後のお付き合いは…」と、関係が途切れてしまうのではないか。その恐怖が、私の足取りを重くさせました。

最初に訪ねたのは、タイ・バンコクで10年来の付き合いになる、チャイさん(仮名)の事務所でした。彼は、私が伊藤忠に入社して間もない頃から、タイのビジネスのイロハを教えてくれた恩人のような存在です。緊張しながら独立の件を切り出すと、彼は一瞬驚いた顔を見せましたが、すぐに満面の笑みで私の肩を叩きました。

「マイペンライ、マイペンライ!(大丈夫、気にするな!)山田さんはもう、俺たち家族の一員みたいなものだ。会社を辞めたって、何も変わらない。むしろ、これからはもっと自由に、面白いことができるじゃないか!」

次に私は、パキスタン・カラチへと飛びました。彼の地で最も信頼を置く老舗業者、アリさんの元を訪ねるためです。イスラムの厳格な文化の中で、ビジネスライクな関係を好む彼のことだ、きっとドライな反応だろうと覚悟していました。しかし、私の話を聞き終えたアリさんは、静かにチャイを一口飲むと、こう言ったのです。

「山田さん、俺たちが最初に取引を始めた時のことを覚えているか?あの時、あんたは伊藤忠の看板を背負っていたが、俺が見ていたのはあんたの目だ。あの目は、俺たちを単なる取引先としてではなく、パートナーとして見ていた。その目を持つ限り、あんたがどこの誰であろうと、俺たちの関係は変わらない。インシャーアッラー(神の思し召しがあれば)、これからも良いビジネスができるだろう」

チャイさんの温かい励ましと、アリさんの静かで力強い言葉。それは、私が恐れていた「看板の喪失」が、実は何の意味も持たなかったことを証明する「真実の瞬間」でした。彼らが信頼していたのは「伊藤忠」というブランドではなく、「山田雄介」という一人の人間だったのです。この時、私の心にあった不安は完全に消え去り、裸一貫で戦うことへの覚悟と、静かな自信が湧き上がってくるのを感じました。

私が実践した、看板なしで信頼を勝ち取るための「5つの原則」

独立後の数年間、私は商社時代以上に多くのパートナーと、より深く、強固な関係を築くことができました。その経験から見えてきた、大企業の看板に頼らずとも、個人の力で信頼を勝ち取るための、5つの実践的な原則をご紹介します。

原則1:相手の「文化のOS」で思考する

私たちは皆、自国で培われた文化や価値観という「OS」の上で思考し、行動しています。海外でビジネスをする上で最も重要なのは、自分のOSを一旦脇に置き、相手のOSを理解しようと努めることです。

例えば、タイ人が口癖のように言う「マイペンライ(大丈夫、気にするな)」は、単なる楽観主義や無責任さの表れではありません。それは、仏教の教えに根差した「物事はなるようにしかならない」という寛容さと、場の調和を重んじる彼らの優しさの現れです。一方で、パキスタンで頻繁に聞かれる「インシャーアッラー(神の思し召しがあれば)」は、未来は人間の力ではコントロールできないという、イスラム教の深い運命観に基づいています。

これらの言葉を日本のビジネス感覚で「言い訳」や「曖昧な返事」と切り捨ててしまえば、その瞬間に信頼関係への道は閉ざされます。

【比較表】タイとパキスタンのビジネス文化OS

項目タイパキスタン
キーワードマイペンライ(大丈夫)インシャーアッラー(神の思し召しがあれば)
根底の価値観仏教的寛容さ、場の調和イスラム的運命観、神への畏敬
時間感覚柔軟で、約束は努力目標神の意志が最優先、人間の約束は二次的
交渉スタイル対立を避ける、穏やかな着地点を探る人間関係がすべて、情理を尽くす
信頼の源泉個人的な好意、共に過ごす時間家族のような付き合い、信仰心の共有

【実践的な例文】「インシャーアッラー」への正しい応答

私が「インシャーアッラー」と言われた際に心がけているのは、相手の価値観を受け入れ、寄り添うことです。

あなた:「アリさん、このコンテナの出荷ですが、来週の金曜日までにお願いできますでしょうか?」

アリさん:「インシャーアッラー。間に合うように全力を尽くすよ」

あなた:「(NGな返答)承知しました。では金曜日によろしくお願いします」

あなた:「(OKな返答)インシャーアッラー、承知いたしました。その上で、神の思し召しが良き方向へ向かうために、何か私の方でサポートできることや、計画の障害になりそうなことはありますか?」

このように、相手の文化を尊重しながら具体的なアクションプランを一緒に描くことで、約束が実行される確率は格段に上がります。「神の意志」に委ねるだけでなく、その意志が実現するための「人間の努力」を共に確認する姿勢が重要です。

原則2:「儲からない時間」こそ、最大の投資である

日本のビジネスパーソンは、効率を重視するあまり、本題に入る前の「雑談」を軽視しがちです。しかし、アジアの多くの国々では、この一見「儲からない時間」こそが、信頼関係を築く上で最も重要なプロセスとなります。

カラチのアリさんの事務所を初めて訪ねた時のことです。私は意気込んで分厚い資料を広げようとしましたが、彼はそれに目もくれず、甘いミルクティー「チャイ」を淹れ、私の家族や日本の文化について、1時間以上も質問を続けました。焦る私を尻目に、彼は「今日はもう帰りなさい。話はまた今度だ」と言い放ちました。

後になって、これが彼らの流儀なのだと知りました。彼らは、ビジネスの話をする前に、まず相手がどんな人間で、何を大切にし、信頼に値する人物なのかをじっくりと見極めるのです。共にチャイを飲み、家族を語り合う時間は、契約書の一文よりもはるかに重い「心の契約」を交わすための、神聖な儀式なのです。この「儲からない時間」への投資を惜しむ者に、長期的なパートナーシップの扉は決して開かれません。

原則3:ギブ、ギブ、ギブ。見返りを求めない情報提供

フリーランスになり、自分の利益がダイレクトに収入に結びつくようになると、どうしても自分の利益に直結しない行動を避けるようになりがちです。しかし、信頼とは、そうした利害を超えた関係性の中にこそ宿ります。

私が常に心がけているのは、たとえ自分のビジネスに直接関係なくても、パートナーにとって有益だと思われる情報があれば、惜しみなく提供することです。

【具体例】あるタイのパートナーとのケーススタディ

ある時、タイのパートナーであるチャイさんから「最近、港での通関が遅れがちで困っている」という相談を受けました。私の直接のビジネスとは関係ありませんでしたが、私はすぐに付き合いのある現地の物流会社に連絡を取り、最新の港湾情報や、通関をスムーズに進めるための裏技的な情報を集めました。そして、その情報を整理し、「チャイさんのビジネスに役立つかもしれません」と、彼に無償で提供したのです。

彼は非常に驚き、そして感謝してくれました。この一件以来、彼との関係は単なるビジネスパートナーから、何でも話せる「戦友」へと変わりました。目先の利益を追わない「ギブ」の精神が、結果として何物にも代えがたい信頼という「テイク」をもたらしてくれるのです。

原則4:約束は「破らない」のではなく「共に創り上げる」

日本のビジネスでは、一度決めた納期や条件は「絶対」であり、それを守ることが信頼の証とされます。しかし、インフラが未整備で、政治や治安も不安定なアジアの多くの国では、予期せぬトラブルは日常茶飯事です。そうした環境で一方的に約束を課すことは、相手を追い詰めるだけで、何の解決にもなりません。

大切なのは、約束を「守らせる」のではなく、どうすればその約束が実現可能になるかを「共に考える」姿勢です。

【実践的な例文】納期変更を交渉するメール

以下は、パキスタンのパートナーと納期の見直しを交渉した際のメール文例です。

件名:【山田より】次期ロットの生産スケジュールについてのご相談

アリ様

いつもお世話になっております。山田です。

さて、先日お願いいたしました次期ロットの件ですが、カラチの天候不順が続いていると伺いました。貴社の皆様の安全と、工場の状況を大変案じております。

つきましては、当初お願いしておりました納期について、無理強いをするつもりは毛頭ございません。むしろ、現状の課題を共有いただき、どうすれば安全かつ確実に生産を進められるか、一緒に考えさせていただけないでしょうか。

例えば、納期を固定する代わりに、週に一度、写真付きで進捗をご報告いただく形はいかがでしょうか。そうすれば、私の方でも日本のクライアントへの説明がしやすくなります。

まずは、アリさんのご意見をお聞かせいただけますと幸いです。

敬具

山田雄介

このように、一方的に要求するのではなく、相手の状況を気遣い、代替案を提示しながら「共に創り上げる」姿勢を示すことで、相手も心を開き、前向きな解決策を探してくれるようになります。

原則5:自分の「弱み」と「失敗」を正直に話す

商社マン時代、私は常に完璧な「伊藤忠の山田」を演じなければならないというプレッシャーを感じていました。弱みを見せることは、会社の看板に傷をつけることだと考えていたからです。

しかし、フリーランスになり、失うものがなくなった私は、むしろ積極的に自分の弱みや過去の失敗談を話すようになりました。2011年のタイ大洪水で取引先の工場が被災し、大きな損失を出してしまったこと。パキスタンでの文化的な誤解から、重要な商談を破談にさせてしまったこと。そうした格好悪い話を正直に打ち明けると、驚くことに、相手も自身の苦労話を語り始めてくれるのです。

完璧なヒーローには誰も共感しません。人は、同じように悩み、傷つき、それでも前に進もうとする人間にこそ、親近感を覚え、心を許すのです。自分の弱さをさらけ出す勇気が、相手との間にある最後の壁を取り払い、真の人間的な繋がりを生み出すことを、私は実体験から学びました。

【実践編】信頼構築のためのアクションチェックリスト

これまでの5つの原則を、具体的なアクションに落とし込んだチェックリストです。現地での商談前に、ぜひ一度セルフチェックしてみてください。

  • [ ] 相手の国の歴史や宗教、最新のニュースを学びましたか?
  • [ ] 商談の冒頭15分は、ビジネス以外の雑談をする準備ができていますか?
  • [ ] 相手の家族構成や趣味など、個人的な側面に関心を持っていますか?
  • [ ] 今回の商談で、相手に提供できる有益な情報はありますか?(見返りなしで)
  • [ ] 一方的な要求ではなく、共に解決策を探る姿勢で臨めますか?
  • [ ] 自分の失敗談や弱みを話す覚悟はありますか?
  • [ ] 食事やイベントに誘われたら、喜んで参加する気持ちがありますか?

まとめ

振り返ってみると、「伊藤忠」という看板は、確かに強力なパスポートでした。それは、私を世界中のあらゆるビジネスの現場へと導いてくれる、魔法の「入場券」のようなものだったのかもしれません。

しかし、その場所にたどり着いた後、信頼という名の「城」を築き、長期的なパートナーシップという「財産」を育むことができたのは、決して看板の力だけではありませんでした。それは、一人の人間として、相手の文化に敬意を払い、儲からない時間を共に過ごし、見返りを求めずに与え、約束を共に創り上げ、そして自分の弱さをさらけ出す、という地道な営みの積み重ねの結果だったのだと、今ならはっきりとわかります。

もしあなたが今、会社の看板の大きさに悩んでいたり、あるいは独立して自分の力を試したいと考えているのなら、伝えたいことがあります。

看板がなくても、あなたの価値は決して変わりません。むしろ、その看板を外した瞬間からが、あなたの人間力が試される、本当の勝負の始まりなのです。そして、その勝負の先には、会社の庇護のもとでは決して見ることのできなかった、ビジネスの真の喜びと、生涯続くであろう本物の信頼関係が、あなたを待っているはずです。


執筆者プロフィール
山田雄介(42歳)
アジア古着市場アナリスト・貿易コンサルタント
タイ・バンコク在住14年目、元伊藤忠商事、パキスタン駐在経験あり
専門分野:タイ・パキスタン・バングラデシュの古着市場
現地ネットワーク:古着卸業者50社以上との取引関係